ふなむし大明神の日記

本当にどうでもいい事だけを書きたい。

遅めの思春期から、抜け出す時には。

夜になると鬱が顔を出す。

鬱、というより私の場合、日中押さえ込んでいる自分への不満が、力を抜いた途端に私を覆う様な感覚である。

 

また、つらつらと、鬱々しいことを言葉にしていく。精神科にこの方法を勧められたが、果たして効果はあるのだろうか。

 

最近、自分が大切にしてきた能力が下がってきているように感じる。

私の人生は、一言で言うと「楽に流れる」人生である。

楽に流れる人生と心に決めたのは高校の時、公立の進学校と呼ばれるやや頭の良い学校の学業に全くついて行くことが出来ず、保健室に入り浸るようになった時からがきっかけだ。

当然それまで不登校経験なんて無かったものだから、心のどこかで常に"レールから外れてしまった"という気持ちがあり、しこりのように固く、じわじわ体を蝕んでいた。

転校した、転学先は通信制の高校。

やはり週5日通う公立高校とは違い、自由の効く高校。そこで色々な生き方を見て、私は「これからは自分にとって楽な方を積極的に選択していこう」と心に決め、何も出来ない自分を許し、癒してあげる事に努めた。

それと同時に「楽な生き方の中にも芯を持っていよう」という目標も立てた。

 

私にとっての芯、それは 常に面白くある事 であった。

面白くある、と言っても他人からの評価ではなくあくまでも自分からの評価であるが、せめて自分が"面白い"と思える人生であろう。と固く心に誓ったのだ。

 

面白くある為に必要なこと、人によって様々意見はあると思うが、私は"好奇心と、それによって得る幅広い知識"だと思っている。

この幅が広い、というのが重要で、幅が広い知識を持っていると、多方面からものを見たり、違う事柄同士に共通点を見出したりする事がしやすくなり、脳が面白く感じる事に繋がる。

 

話を戻すが、「面白くあろう」という私の人生が最近翳りつつある。

妙に安定してしまっているのだ。

 

例えば友人関係においても、同じ地域に住む人間と友達になり週一でご飯を持ち寄ったりだとか、賃貸の家をDIYしたりだとか、足の踏み場もなく散らかっていた部屋もここ数ヶ月は綺麗なままであったり。

絵に書いたような、安定した生活を送っているのだ。

これは全くもって自慢ではなく、私にとっては非常事態である。

安定してしまっているがゆえ、脳が衰えたのか、パチパチとシナプスが弾け合う様な強烈な興奮や感覚を全く感じることが無くなった。

更に、好奇心を広げなきゃ!と貪欲な気持ちになるも、何かを摂取しようとしても「こんな事にヤケになる必要あるのかな、誰も見てないのに」という気持ちになってしまって、何も手につかない。

安定しているから、友人関係も円満であるし、ぼーっと漫画を読んで、テレビを見て、友人と電話したり、Netflix流し見すると丁度いいな、なんてことを考えていたらあっという間に夜である。

何をしているのか全く分からない、でも心は八分目程常に満たされている。

 

 

この生活を少し続けてみて、どうやら私は「辛い時ほど脳が快楽物質を出す性質」の様だと気付いた。あまり合わない仕事をして、やけくそになって当時片思いしていた人にLINEを送る...

そういう虐げられた生活で感じた怒りや、鬱屈とした感情、そしてそれを言葉にしている時の自分が、何より面白いと感じるのだ。

そして、実際当時の生活を思い出したり、当時の創作物を見ていると、今作るものよりも格段にいいものを作っていると感じる。

 

フラットで穏やかな、今の状態が真綿で首を締めるように、ジワジワと私を蝕んでいく。

 

でもこれは進化なのではないか?

そう思う時もある。

例えば芋虫が蝶になるのを考えて見てほしい、彼らはサナギの中で1度ドロドロに溶け、そして蝶へと変わるのである、そこにはイモムシだった頃の面影はない。

そういう、所謂"サナギ"の時期にいるのでは無いか?

 

でももしこの理論が私の人生上正しかった場合、昔に感じた面白さには戻れないのである。

あの頃感じていた自分の面白さには、少しばかり自信があったのだ、でも今の人生はどうだろう。この文を読んで頂いてもわかる通り、なにも面白く無いのである。

私の中のアイデンティティが、平凡の名のもとに、端の方から、ゴロゴロと音を立てて崩れていくような感覚に囚われている。

 

普通で平凡な幸せ、これを得るために私は、あのシャープで鮮やかな感覚、バッ!と燃えるような感覚を忘れなければいけないのだろうか。

これが、思春期から抜け出すということなのだろうか...

等と、延々と考えてしまう訳である。

 

昔も今も、別に特別才能がある訳では無かった、でも、自分だけでも認めてあげられていた、自分自身の面白さが消えていくようで、なんだか寂しい。

 

遅めの思春期を、手放す時なのだろうか。

 

愛し方が分からない

こんな事を書くのは不本意なのだが、周りに言い難く、また世間的に良くないとされていることであるため、ここに吐き出す事とする。

 

私は愛されたい人間に愛されないタイプの人類である。

 

私の魅力が分からない人間なんてクソ喰らえ、と威勢を張ってなんとか立っているが、梅雨の夜などはやはり寂しさに押しつぶされそうになってしまって「愛される 方法」などと検索してしまう。

もうその時点で本来の愛される力からは遠ざかっている気がするが。

 

検索すると「自らの愛を捧げなければ愛される事は出来ない」と書いてある記事を幾つか見つける、そして私の胸がモヤっとする。

 

人間とは何故こんなに息苦しい生き物なのか

どこかの神様が我々の肉体のことを"魂の入れ物"の様な表現をしていたような気がするが、その通りであると思う。

 

愛さないと愛されない?本当に?

例えばビジネスの世界では、どれだけ利益が出るかを考えるはずである、原価を少なくして、利益を得る。 これは王道のやり方であると思う。

なのに恋愛ときたら、先にこちらが与えなければいけないらしい、リターンが期待できないかもしれないのに、だ。

 

分からない、この感覚。

 

先手を打って投資をする、という感覚なのかもしれない。しかし、投資はある程度傾向があるはずであるし、どんな状況でも前例で自分なりに予測を立てられるはずである。

 

人間も強者になってくると予測出来るのかもしれない、それでもやはり大きな賭けになるはずである。

 

やはりその大きな賭けに自ら飛び込んで「愛」

を投資出来るというのは、皆相当強いメンタルを持っているのだな、と感心してしまう。

 

愛さなければ愛されない、窮屈な生き物である。

愛されたら愛したい、損はしたくない、本来ならそういう考えになっていくはずが、変な知性があるからか、先に愛を与えなければいけない世界。

 

愛さなくたって愛してほしい、そういうワガママすら愛して欲しい。

 

書いてて、自分でも「だから愛されないんだぞ」とツッコミを入れたくなる内容である。

 

でももっと、本能のままの気持ちだって美しいという価値観が広まらないだろうか、と自分本位なことをブツブツ考えている。

綺麗なだけじゃないだろ人類、もっと全てに素直に生きようぜ。

 

素直に生きている我々にバンザイ。

やっぱり素敵な恋愛なんてクソ喰らえである。

死にたい朝には

お題「#おうち時間

 

おうち時間、みなさんはどうお過ごしだろうか。

コロナ鬱、という単語が最近よく目につくので、いつも通りどうでもいいことを憶測と偏見だけで書いていこうと思う。

 

年中うっすら鬱のわたしは、死にたくない朝がない。

仕事もやめ、貯金も底が見えているし、外には出ない、貯金が無くなったら死ぬのかななどと呑気に考えている。

 

精神科も予約が取りづらくなった、コロナ鬱の噂は本当なのかと毎回実感する。

 

もしかしたらこのコロナで、初めて鬱の門の入り口に立った人、多いのではないだろうか。

どうかそこで踏ん張っていただきたい、頑張ることをやめてほしい。

 

死にたい朝には、どうしようもない朝には、ご飯とお味噌汁が良い。

ご飯もレトルトでいいし、お味噌汁もレトルトでいい、レトルトがいい。

 

元気があるほんの一瞬、台風の目のようなほんの一瞬の晴れ間を狙って、とにかく味噌汁とご飯をゲットしてほしい。

そして、一日の目的を「味噌汁とご飯を食べること」に絞る。

他の家事は後回しである、それを済ましたら泥のように眠ってもいい。

朝の光を見ながら味噌汁とご飯を食べることに意味がある。

朝の光を浴びながら味噌汁とご飯を食べる貴方は素敵である、素晴らしい。

 

 

ちなみにこれを推奨する科学的根拠は一切ない、ただのおススメである。

味噌汁とご飯でなくてもいいと思う、好きなものに置き換えてもいいかもしれない(ただし経験した感じジャンクフードはあまりお勧めできない)

 

ただ、万年鬱の私がすこしだけ効果があったと感じた方法なので、シェアしたいと思ったまでである。

騙されたとおもってやってみてほしい、本当に騙しちゃってるかもしれない。

 

超ローコストで頑張らない私は、更に箸を割りばしにしている、これも使い捨てられておススメである。

 

もし、心が辛い方がいたら、とにかく頑張る部分をなくしていただきたいと思う。

頑張らないのは意外に難しいので、早めに頑張らないことに慣れておくためにも、心がピンチだなと感じたらすぐに「頑張らないモード」に移行していってほしい。

 

鬱は沼だと考えている、一度入ってしまうと抜け出すのに時間がかかりすぎる、あまりにもコスパが悪い。

どうか貴方のおうち時間が、幸せであることを願っている。

 

生きている貴方も私も、本当に素晴らしいと思う。

世界が平面に見える季節

天気も気温も、春がどんどん近づいていて来た様な感じがしますね。

 

今の時期の雲ひとつない快晴の空って、色も単調で、なんだか" グリーンバック "の様に見えませんか?

 

空の奥行きがないから、遠くの大きいマンションも近くの小さい平家も、距離感が掴めず同じ大きさに見えてしまいます。

 

画像編集の様にこの青空がすぽっと抜けたら、どんな画像を差し込みたいかな、などとつい妄想してしまいます、楽しいです。

 

同じ場所を歩いているだけでも、自分が作りかけの動画やアニメの中にいる様な感覚になれてとても面白くて好きです。

 

 

青空ごと、全部すぽっと抜いたら、巨大化させた私の画像をコピー&ペーストして町中巨大化した私で埋め尽くしたいですね。

 

目がチカチカしそうですが。

 

皆さんは青空を何で埋めたいですか?

 

もし、青空を何かで埋められる機会が訪れたら、なるべく目がチカチカしない画像で青空を埋めてくださいね。

ドン・キホーテの店内の様な極彩色の空を常に見続けていたら、気が狂ってしまいそうなので....

 

この世の中100%というのは中々ないと思うので、もしかしたら青空を好きな映像に差し替えられる日が来るかもしれませんよ...

 

その日の為にも、我々は青空をどうしていきたいか、この快晴が続く時期にイメージトレーニングをしておきましょう...

 

 

 

最近寝不足でこんな事しか考えていませんが、お付き合いいただければ幸いです。

 

 

 

 

また。

目先の物しか見えなくて何が悪い

花粉で顔中がデロデロ、どこにいても水中にいるのではないか、と錯覚するくらい息をするのもしんどい季節がやってまいりました。

 

鼻詰まり、目の痒み、喉の痒み、くしゃみ...

花粉症役満の私は、とにかく、何か効く薬は無いかと、朦朧とした意識の中でドラッグストアに駆け込みました。

 

レジの無愛想なおばちゃんに薬剤師さんを呼んでもらい、欲しい薬を説明。

 

その時、ふと、自分の知らなかった自分の一面を垣間見ることができました。

 

 

私、今まで目先の物しか見てこなかったな...

 

 

どういうことか、説明させてください。

 

まず、私が好きな薬の順番は

目薬>>>>鼻炎の薬>>頭痛薬>向精神薬

こうです。

自分の症状の深刻さとも照らし合わせての結果なのですが、この順番、ほぼ「効く時間の速さ」順なんですね。

 

目薬は勿論一番スースーするのを使いますし、鼻炎の薬、頭痛薬なんかは即効性を謳い文句にしているメーカーの、一番高くて強そうなやつを買います。

もし消費者心理マニュアルがあるとすれば、第1章を数ページ読んだだけで、私の買い物の傾向が全て把握できるでしょう。

 

私はスピーディーかつ、効果が見えやすい物が昔から大好きです。

 

ゆっくり効くけど積み重ねていくと大きな効果が出るからって毎日一錠ずつ薬を飲むのとか苦手なタイプ。

 

それを、まさか、花粉症の薬を選んでいる時に知るとは...

 

自己啓発本を読んでいる時でもなく、その類のセミナーに通っているわけでもなく、混濁した意識の中で鼻をすすりながら、小さい声でボソボソと薬剤師さんに欲しい薬を説明する時に、自分を知る...

 

 

 

 

「自分探しの旅」なんてよく言いますが、その理由で旅行へ行き、自分を見つけて帰ってきた人、私はまだ知りません。

 

自分自身は今、ここにしかいません。

貴方自身も今、そこにしかいないと思います。

 

どこに行っても自分がいないなぁと思ったら、一回立ち止まって、今そこから見えるものを見渡すのもいいかもしれません。

 

灯台下暗し。 私も自分の一面を、近所のドラッグストアで見つけることになろうとは、想像もしていませんでした。

 

貴方が探している自分も、もしかしたら近所に居るかもしれませんよ。

 

なんてね。

 

 

そういえば、すぐ効く商品が好きな私は、小林製薬のコマーシャルの大ファンです。

小林製薬、商品開発とコマーシャルの"痒いところに手が届くスッキリ感"の演出がお上手なのよね。

共感してくださる方居たら嬉しいです。

 

 

では、また。

 

 

 

 

イクラを飲み込んでしまった時の絶望感がすごい。

ここの連休、久しぶりに仕事に復帰しています。

朝に弱く、ご飯を食べる時間を取れなかったので、途中にあるコンビニでイクラのおにぎりを買って食べながら仕事へ向かいました。

 

イクラって高いくせに小さくてコロコロしてますよね、何でもミニマムになっている昨今では、小さい物やコンパクトな物ほど高くなっている気がします。

 

おにぎりの上の余白(具に到達するまでのご飯の部分をこう呼んでいます。)を食べ進め、イクラに到達したところで事件が発生しました。

 

コロコロしたイクラが、喉の関門を易々と通過して行きます。

食道にどんどん転がり落ちて行くイクラ、むせることもなく受け入れていく喉。

ちゃんとプチプチと味わって食べられたイクラが何粒あったのでしょうか。

気が付いたらおにぎり自体を食べきってしまいました。

 

なんという虚無感。

 

せめて、せめて値段の分だけでも粒が大きければ....せめてもう少しイクラの量があれば...

普段バーガーキングのどデカハンバーガーでお腹を満たしている私には、あまりにも繊細過ぎる食べ物でした。

 

 

イクラのおにぎりを正しく食べられるような淑女になりたいものです。

 

また。

 

 

 

 

 

 

タバコをやめられなくなってしまった

今週のお題「大切な人へ」

 

ベランダでタバコを吸いながら、日記を書こうとアプリを開いた所で「大切な人へ」という文字を見て忘れられない思い出が蘇ったので日記として記します。

 

私は元々タバコ否定派でした。

煙の匂いは嫌いじゃないけど、自分がタバコ臭くなるのはイヤだったし、そもそも肺癌、その他諸々のデメリットが大きすぎるから。

タバコの吸い方の違いも分からなかった。

 

好きだった人がいました、高校を転学して、自由な社会に出て、背伸びしたい盛りに好きだった人です。

細かな絵を描く人でした、音楽も得意で、言葉で何でも表現できてしまう

線が細いわけでは無いけど、常に周りに透明なベールを纏っている様な、繊細な雰囲気を漂わせる人でした。

 

今考えると、完全に信仰と執着なのですけど、盲目になっていたからか、綺麗な思い出しか残っていなかったのが救いです。

 

お酒を飲みに行こうと言って、安い居酒屋に行きました。緊張して、どうせ味もわからないから、どんな場所でも良かったのです。

お金もないから、古着屋で買った掘り出し物の赤いロングコート(当時の勝負服でした)を着て、メイクして、髪の毛をああでもないこうでもない、と弄り倒して、緊張の余り待ち合わせ中に何度も友人にLINEをしたり...

 

居酒屋でどんな話をしたかは全く思い出せないです、何せとても緊張していたので、彼の姿を目に焼き付けるのに必死でした。

一緒に写真を撮ろうと言える柄でもないし、目を見て話すことすら緊張してしまうから、ただただ、タバコを吸う右手を見つめていました。

 

楽器を弾いたり絵を書いたりする彼の手は、考えていたより細くはなく、少し豆があってゴツゴツしていました。

 

吸っているタバコもよく見る様なメーカーではなく、表に鳥のイラストが書いてある、少し不思議な匂いのするタバコでした。

「木をいぶしたような匂いがするね」と言ったら「よく分かったね、珍しいでしょ」と驚いた口調で答えてくれた事が、認められたみたいで少し嬉しかった。

 

それでも覚えているのは、首から下、カウンターから上の範囲の動きと断片的なやり取りの記憶だけで、もう顔どころか、声も鮮明に思い出す事ができません。

 

その日から何故か、私もタバコを始めてしまいました。ほんの出来心です。

次彼に会う時は、一緒にタバコを吸って、銘柄の話ももっと沢山できるようになって、大人になって、タバコの煙を挟んだら目を合わせる事も出来るかも、とか

 

結局、次はなかったのですけど。

 

体に害のある、苦いタバコの煙だけを残して

彼とは自然に連絡を取らなくなっていました。

タバコを吸ったら大人になれると、心のどこかで思っていたけどそんなこともなく、歳だけを食って、精神は子供のまま。

 

何かを始めたら自然に大人になれる、という考えが既にこどもなのですよね。

大人になろうと努力した人にしか、大人にはなれない、今はそう感じております。

 

そういえば彼のタバコ、気になって記憶だけを頼りに自販機やタバコ屋さんで今も探しているのですけど、未だにそれらしい商品を見つける事ができないでいます。

思い出を美化しすぎているのだと思います。

今そのタバコを見つけたとして、吸っても、案外普通のタバコの匂いだったりするのかもしれません。

 

思い出は思い出の中だけで留めておくのが良いのかもしれませんね。

 

夜は寒いですね、タバコを吸うのも一苦労ですが、冬の空気に混ざってほどけていく煙を見る時間が、私にとっては何よりの癒しです。

 

皆様も風邪などひかれませぬよう、ご自愛下さい。

 

また。